生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

一貫した信仰義認の教理

信仰の父アブラハムについて、続けて見たいと思います。

アブラハムは、神ご自身から約束を与えられました。それは創世記15~17章にあります。特に創世記17章7,8節に、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」とあります。

「子孫」というのは、「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」(ガラテヤ書3:16) とある通り、イエス・キリストのことです。

イエス・キリストご自身は、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」(ヨハネ8:56) と仰られました。

アブラハムは、神による唯一の救いの道を信じました。彼は、イエス・キリストを信じる信仰によって、義と認められたのです。

この救いの道、信仰のみによる義認は、旧約時代から一貫したものであり、しっかりと理解しておくべき教理です。【もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます、しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。】ローマ人への手紙4章2-5節

そして、前回見たように、彼の信仰には行いが伴っていたのです。このことを強調するのは、よく知られている通り、あの宗教改革マルティン・ルターさえ、その点を記しているヤコブの手紙の解釈を誤ったからです。また、行いの伴わない信仰というものは、ありふれたものだからです。

【私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。】ヤコブの手紙2章21-24節

                  引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会