生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

自分が描く神の理想像

「神を信じる」と言ったときに、自分が信じる神はどのようなお方でしょうか。

何でも受け入れてくださる神。自分のしていること、思っていること、弱さも失敗も、赦し、受け入れてくださる神ならば、信じやすいのです。

しかし、受け入れてくださらない神となると、そんな神は神ではない、というような態度となってしまうのです。それは、神を信じているという人々の中に、しばしば見られる光景であり、私自身もそうでした。

自分が良いと思ってしていること、願っていること、それらが受け入れられないとなると、反発します。それが、自分の描いている理想の神を信じ、聖書の神、唯一まことの神を信じ、敬ってはいない人の姿です。

自分の描いている理想の神を信じ、満足しているならば、神との和解の必要性、救いの必要性はわかりません。

神の愛、恵み、あわれみという、自分の理想にかなうところばかりが唱えられ、イエス・キリストを信じなさい、と言われても、その特別な必要性がわかりませんし、何のために、何をどう信じるのかもわかりません。

聖書の神は、聖なる義なるお方であられ、罪や悪に対しては、必ず報いられます。しかし、悔い改める者にはあわれみを示されるお方であられます。

悔い改めというのは、ただ、私は悪いことをしました、罪を犯しました、ごめんなさい、と、自分が悪いと思ったこと、罪だと思ったことについて、謝るというようなことではありません。

神に対する罪は、そもそも神ご自身に対する認識の誤りということがあります。神がどういうお方であられるか、正しい認識があるならば、人は神を神とし、神に従うことに積極的になるはずです。

神に対して自分が誤った認識をしていたことへの自覚、自分自身に対する認識の誤りへの自覚、そして神と自分との関係が正しい関係にないことへの認識が生じてこそ、悔い改めへと向かわせられるのです。

神は、どのようなお方であられると認識しているでしょうか。神に対して、自分はどのような者でしょうか。