生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

イエス・キリストを信じる信仰

これまでもそうでしたが、私の周りの身近な教会員の方々を意識して記しています。
諸々の活動に忙しく、みことばにはあまり関心がない多くの方々に、私は悲しみを覚えますし、主はどのようにご覧になっておられるでしょうか。イエス・キリストを信じる者は、主のことばを慕い求めるものではないでしょうか。

 

人が義と認められるのは、律法の行ないによってではなく、信仰によってです。
何を信じるのかと言えば、イエス・キリストのすべてです。

イエス・キリストについては、旧約聖書から聖書全体を通して語られています。キリストは、律法と預言者を成就されました。そのことが新約聖書で語られています。ですから、旧約聖書新約聖書が語る通りの真理を聞き入れることです。

聖書はいくらでも、どのようにでも解釈できます。全体を捉えずに、自分の信じたいように信じるとか、信じられることだけ信じるというのでは、信仰とは言えません。

一人一人が信仰へと導かれる道筋はそれぞれですが、共通の経験があります。

口先でイエス・キリストを信じる、と言うだけでは、イエス・キリストを信じる信仰とは言えません。

まず、自分の抱いてきた自尊心が打ち崩され、自分は神に対して罪ある者であり、神の御怒りの下にあること、永遠の死という神のさばきの対象であるのだと悟ることです。罪の自覚がないところに、イエス・キリストを信じる信仰へ至らされることはありません。

神に対する罪を自覚したら、罪が神との関係を切り離していることを知ります。神に向き、神との正しい関係を求め、自分の罪が神に赦されなければならないことを痛切に知り、罪を言い表します。

律法の行いによっては、罪に定められるのみであり、キリストの血、キリストの義によって、罪赦され、義と認められること、イエス・キリストだけが自分を救うことができると、キリストにのみ信頼します。

他に頼るものは何もなく、ただイエス・キリストによってのみ、神と和解させられ、本来あるべき親しいお交わりに生きることができると、キリストのみに依存する者が、イエス・キリストを信じる者です。