生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

クリスマス -イエス・キリストのご降誕に思いを巡らす-

幼い頃から私が経験してきた〔教会のクリスマス〕を含む現実を見つつ・・・

アドベントの最後の週ということで、その中で思い巡らしていることを、書き記したいと思います。

 

クリスチャンは、ありもしないおとぎ話を信じて生きている能天気者ではありません。
確かに教会内には、「信仰」を取り違えて、物事の本質が見えておらずに、能天気な考え方をしている人々が少なからずいます。

クリスチャンは現実を直視します。或いは、現実を直視できるのがクリスチャンであり、正しく現実を見ることができるのがクリスチャンです。

クリスチャンでない人は、様々なことで気を紛らし、明るく楽しい気分になって、または何でもいいのでスカッとした気分になって、嫌な現実から目を反らし、暗くネガティブな気分を麻痺させようとします。

クリスマスはまさに、世界中でそのようなことのために使われています。そして教会でさえ、そのような傾向があります。
しかし真のクリスチャンは、現実を現実として捉えず、楽観的に構えているのではなく、現実に真っすぐ向き合いながらこそ、驚くべき奇跡を信じ、喜ぶことができるのです。

この世界の現実は、罪と悪に支配され、虜にされている事実を物語っています。なぜ、残酷で悲惨なことがくり広げられるのか。小さな集まりであっても、人が集まるところには、何かしらの問題が絶えません。神を神としない人間の自我という罪は、大なり小なり問題を引き起こします。

人間は、昔から今まで何も変わりません。そしてこの世の世界は、本質的に何も変わってはいません。

罪と悪の虜となっている、それがこの世の現実であり、人間の現実です。

そして悲しく痛ましいこの現実を直視すれば、神は沈黙され、もはや望みも与えてはくださらないように思えます。救い主イエス・キリストが、人としてこの世にお生まれになった当時も、そのような状況であったことに思いが向かわせられます。

なぜ救われなければならないのかを知らず、何から救われなければならないのかもわからないこの世の人々の中に、救いの光が投じられたことは、驚嘆すべき出来事です。

当時、選ばれた民であったイスラエルの国の人々は、彼らの罪ゆえでありましたが、様々な国からの制圧下にある長い歴史の中で、イスラエルの国を再興してくださるのが、約束されていた救い主だと考えていました。

現在、人々は「救い」と言ったら何から救われることを連想するでしょうか。人によって違うでしょう。自分自身の現実の中で直面している問題から救われたい、と思うでしょう。何も問題を感じていなければ、救いなど必要としていないと言うでしょう。

しかし、いずれにしても問題の本質が見えていないのが、そもそもの人間です。

ここまで記してきた通り、問題の本質は、罪と悪の支配にあり、罪によって本来あるべき造り主なる神との関係が失われていることです。

ならば救いとは、神との関係が回復されること、神との和解です。造り主なる神との親しい交わりが取り戻されること、この根本的なところの解決なくして、あらゆる問題が解決されることはないのです。

なぜ救われなければならないのか、それどころか神など必要ない、神が提示しているような救いなど必要ない、と拒絶するのが、生まれながらの人間です。

そのような私たち人間のために、一方的に愛するひとり子を遣わしてくださった、神の熱い御思いに深く思いを馳せると、言葉にできないものが心の底から沸き上がります。

教会内の人々も、救い主の降誕を覚える、と言いながら、自分が明るく楽しい気分になって、何か気を紛らわしているのではないでしょうか。或いは、もう十分わかっており、自分は毎年きちんと本当のクリスマスを覚えていると思いつつ、何かマンネリ化しているような気持ちになってないでしょうか。或いは一大イベントの忙しさに、静かに思いを巡らすことができないのではないでしょうか。

それは、神の熱い御思いを本当には知らないからです。そうであるならば、教会の外の人々に伝えることのできる特別なメッセージを持っているとは言えません。

静かに、じっくりと吟味し、この世の現実を、自分自身の現実を、深く見させられれば見させられるほど、神の熱き御思いが、どんどん強く迫ってくるはずです。

年を重ねるごとに、父なる神が御子イエス・キリストをこの世にお送りくださり、神の御子イエス・キリストが人としてお生まれになった事実から、ますます驚きをもって、その神の熱き御思いを知っていく者でありたいと願います。