生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

キリストの血

罪の贖いのためには、全く欠けのないいけにえの死、身代わりの死が必要です。

私たちは、神に対して罪を犯しているので、まず神に罪を赦して頂かなければなりません。罪と悪の奴隷である罪人は、罪と悪に従って生きているため、神に従うことができず、それどころか反逆し、罪を犯すのです。罪が処理されなければ、到底、神の所有のものとされることはありません。

旧約時代から示されていたように、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル人への手紙9:22)いけにえに罪を負わせ、その血が注ぎ出されるのです。
血が注ぎ出されるということは、完全な死を意味します。身代りの死が必要なのです。

そして罪の赦しのためのいけにえ、贖いの代価を、神ご自身が差し出してくださいました。神の御子イエス・キリストのきよい血が注ぎ出されたのです。
キリストは、まことのいけにえとして、いのちを捨てられました。

使徒パウロはローマ書5:9で、「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」と記しています。義なるキリストの血が、罪人の救いの土台であり、絶対に欠かせないのです。
 使徒ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と記しています。(Ⅰペテロの手紙1:18,19)

キリストの血がなければ、私たちは神に近づくことはできません。キリストの血によって神と和解させられるのです。神に近づくには、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血が絶対必要なのです。キリストの血がなければ、神に近づくことも、祈ることも何もできはしないことが、聖書を見れば明らかです。

レビ記には、ことごとくそのことが示されています。聖なる神が、罪汚れにまみれた者がご自身に近づくことができる道を備えてくださったのです。人間の考えでもって、聖なる神に軽々しく近づくことなど決してできません。聖なる神への近づき方を知らずして、このお方を礼拝することはできません。

そして、主の聖餐にあずかる者は、本当にキリストの血の意味を知り、キリストの血の尊さを知って聖餐にあずかっているか、問われます。

                                                                 引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会

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