生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

人となられたイエス・キリスト

人を救うため、神の御子イエス・キリストは、人としてこの世に遣わされました。

人は生まれながらに罪人であり、神の律法を守ることはできません。律法によって罪に定められています。人は、律法の行いによって義と認められることはできません。

イエス・キリストは、私たちと同じ肉体をまとわれ、人となられて、この地上で神の律法を完全に守り通されました。一点一画の落ち度もなく、人として完璧な生涯を歩まれたのです。父なる神を愛し、その命令を守り、死にまでも従われました。ただひたすら、父なる神のご栄光のためにこの地上での日々を過ごされました。

それが、どれほど重要なことかを知らなければならず、忘れてはなりません。

私たちには決してできないことを、イエス・キリストは、人として成し遂げてくださいました。律法の義を全うしてくださったのです。

そうでなければ、人の罪の身代わりとはなれませんでした。罪を犯した者が、罪を犯した者の身代わりとはなれません。ほんの少しでも欠けがあったならば、罪人の身代わりとなることはできませんでした。
ですから、それは実に、神の御子、神であられるお方が人となられる以外には、不可能なことでした。

「世の罪を取り除く神の小羊」は、人を完全に救うことがおできになる、罪汚れなく、全くきよいまことのいけにえなのです。

神─人なるイエス・キリスト

イエス・キリストは、父、子、聖霊なる三位一体の神の二位格であられる、神です。この三位一体については、私たち人間の理解をはるかに超えていますが、三位格なる聖霊によって受け入れることができる真理です。神は超越されたお方であられ、だからこそ神なのであり、私たち人間が理解できてしまう程度のお方ではありません。
そして、イエス・キリストは、完全に神であられながら、完全な人として、聖霊によってみごもった処女マリヤからお生まれになりました。
このようなことは、私たち人間の知性では到底考えられないことであり、信じられないことです。しかし、聖霊によって、それが真実であることを知り、信じることができるのです。
イエス・キリストは、完全に神であられ、完全な人として、父なる神から遣わされ、この地上での生涯を歩まれました。
それは、人を救うための唯一の道を作り上げるために絶対必要な方法であり、神はそれを実行してくださったのです。
イエス・キリストを信じる者は、このお方が神─人、完全に神であられ、完全な人となられたこと、この「二性一人格」を確かなこととして信じているのです。

神が遣わされた御子イエス・キリスト

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」


このヨハネ福音書3:16は、最も有名なみことばの一つですが、それだけにキリスト教界では聞き慣れた当り前のことばのようになってしまっています。ただ単に、愛だけの神を念頭に置いているならば、そうならざるを得ません。

しかしこれは、何度聞いても驚くべき神のメッセージです。

まず、人間の神に対する態度、罪を徹底的に嫌われ、怒りを覚えておられる聖なる神ということを考えなければなりません。
造り主なる神を神とせず、反逆する者に、父なる神は最大のものを与えてくださったのです。ご自分のひとり子は、ご自分にとってすべてです。その御子を、御怒りを覚えておられる罪人に与えてくださったのです。すべてを与え尽くしてくださったのです。


「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」ローマ人への手紙5:6


神に対し、自分がどのような者であるか知っているでしょうか。知らなければ、この驚くべきメッセージの意味はわかり得ません。

失われている?キリスト教の中心教理

キリスト教の中心教理は、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる、「信仰義認」ですが、このことが現在、正しく理解されていない場合が多いのです。

そもそも何を信じているのか、信じるとはどういうことなのかが、わかっていないのです。

イエス・キリストを信じると言っても、イエス・キリストの何を信じているのか・・・。十字架での死、復活・・・しかし、その意味は何なのか・・・。

何を信じているのか、わかってもいないことを信じるというのは、筋の通らない話です。

それはまず、初めの方から記してきた「罪」というものがわかっていないからです。

そもそも人間は罪人として生まれ、罪に支配されているので、罪を罪と自覚することもないのです。

そして、何故罪が赦されなければならないのか、何故義と認められなければならないのかが、わからないのです。

現在私は、「罪の赦し」という言葉を聞いても、「義認」という言葉は、あまり聞くことがありません。

神から義と認められなければ、完全に正しく義であられる神と交わることはできません。罪人は、神を知らず、神に背き、神の律法に従おうとは思いません。そのような罪人に対し、神は怒りを覚えておられます。神は聖なるお方であられ、罪や悪と交わることはおできにならず、完全に忌み嫌われるからです。だから、相交わることができません。

そして神は、罪に対して正しいさばきを執行されます。最終的なさばきは、永遠の死であり、それは神との完全なる断絶です。

私たち人間は今、この世に生かされている間に、造り主なる神との関係が回復され、神と和解させられる必要があるのです。そして、その道はただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によって神から義と認められることです。

今、生きている目的

今、生きている目的は何かと聞かれ、クリスチャンたちは何と答えるでしょうか。

そもそも、クリスチャンとは何でしょうか。何故、神を礼拝するのでしょうか。

教会とは何でしょうか。何のために集うのでしょうか。

明確な答えを持っているでしょうか。

教会につながっていても、結局一つ一つが何のためなのかがわからず、疲れを覚えている人は多いと思います。

教会は、神に呼び出された者、召し出された者たちの集まりです。根本から変えられ、新しくされた者たちの集まりです。

教会は、たましいが取り扱われるところです。

その認識と実践をほとんど欠いているのが、現在の《教会》です。

救いとは何か。教会内の人々でも、明確に理解している人が、どれだけいるでしょうか。

救いとは何かを理解しておらずに、今、生きている目的、生かされている意味は本当にはわかりません。

私自身、そうでした。だから、絶望の思いの中で、悩み苦しんでいたのです。

 

罪の刑罰

誰もが知っているように、罪に対しては刑罰があります。

そして、最も重い刑罰は、死刑です。

聖書は、「罪から来る報酬は死」と言っています。

神は、正しく完璧なお方なので、罪や悪に対して決して目をつむることはなさらず、正しいさばきを行われます。

人類に罪が入ってから、人は死を迎える存在となりました。

これも誰もが知っている通り、人は生まれてきて、そして死ななければなりません。

その後の行き先は、最後の審判によって確定されます。

罪に定められているままならば、永遠の死、滅びに至ります。

しかし神は、義と認める道、永遠のいのちへの道を備えてくださったのです。

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聖書が示す人の罪

キリスト教で言う「罪」とは、「的外れ」ということです。

造り主なる神との本来あるべき関係が失われ、神を知らない人間は、神に背き、神が人を造られた目的に全く反する、的を外した存在です。

神に対する正しい認識があれば、人は神をほめたたえずにはいられません。しかし、知らないので、神を認めず、憎みさえしているのです。

聖書が示している罪は、法律に従って有罪か無罪かが判断されるように、神の律法に従って、造り主なる神の基準によって定められています。

罪人は、神の律法に束縛を感じ、拒絶します。誰一人、神の律法を守ることなどできないのです。律法は、人を断罪しています。

なぜ、キリスト教では罪、罪とうるさく言うのでしょうか。

それは、罪が処理されなければ、生きる目的が取り戻されることがないからです。

そして、罪が処理され、生きる目的が取り戻される道を、神が差し出してくださっているからです。

そうでなければ、神は、私たちを見捨てて放っておかれたでしょう。

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生きる目的を失っている罪人

自分がどこから来て、どこへ行くのか、そのことを明確に知らないため、人は生きることに明確な目的を持っていません。私自身がそうでした。

聖書には、神が天と地を造られ、すべての被造物を造られ、人を特別に神のかたちに似せて造られたことが書かれています。神は、ご自身の栄光を現すために、男(アダム)は生き物のかしらとして、女(エバ)はそのふさわしい助け手として造られました。すべての被造物が共に生き、神と人との親密な交わりがありました。
しかし、エデンの園の中央の木から、その実を取って食べてはならないというただ一つの制限を、蛇の形をとった悪魔(神の座に上りつめようとして堕落し、地に落とされた御使い)に誘惑されたエバが破り、そして人類の代表であったアダムが破ったことにより、人類に罪が入りました。彼らはエデンの園から追放され、苦しんで生き、死を迎えることとなりました。
この世界を見れば分かる通り、人の堕落の影響は、全被造物に及んでいます。

人は皆、罪人として生まれてきます。造り主であられる神と切り離されており、造り主を知らず、造り主が自分を造られた目的を知らず、そもそも生きる目的が失われているので、生きる目的がわからずに、自分の持論でもって、自分を納得させて生きています。私自身がそうでした。
しかしそこには限界があり、本当に納得できる答えなど、見出すことはできませんでした。
そして、まずそのことを悟らされることが、生きることの明確な目的を知るために欠かせない一歩でした。

生きる目的とは

生きる目的とは? と聞かれて、明確に答えることができるでしょうか。
私は生きる目的がわからず、今日こそ死のう、と心に決めながら過ごしていた日々がありました。

そのような私が変えられ、現在明確な目的をもって生かされていることは、驚くべきことです。

聖書には、生きる目的が明確に記されています。
本来の生きる目的に生きること、その道を綴っていきたいと思います。

 

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