生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

体と魂(精神)と霊の関係

前回までとは異なるテーマとなるようですが、日本においては特に、精神医学的な疾患に対するアプローチと霊的ケアについて、混同されてしまっている現状があり、そのために余計に状態が悪化してしまうケースをよく見聞きしているので、学ばされ、考えさせられていることをここに書いていきたいと思います。

人間は、体と魂(精神)と霊で成り立っていると言われています。それぞれ大まかに、体は感覚(五感)の知覚、魂は自己の知覚(人格)、霊は神の知覚(神との交わり)が行われます。

魂(精神)の部分に、知性、感情、意志の働きがあると言われます。

体と魂(精神)の部分で、ものごとを認識するのはそれぞれ脳と知性であり、このいずれかの部分の機能が極端に乱れ、崩れ、コントロール不能になったものが精神疾患と言われているものではないかと考えています。

お互いつながっているので、影響し合い、身体の異変で脳内物質や機能が乱れることにより、知性も乱れ、反対にショックを受けたりして知性がコントロールを失えば、脳にも影響が及ぶであろうと思います。

魂(精神)、自己の知覚は、御霊によって新しく生まれ、霊が生かされて正常に機能することは明らかだと思います。ただ、霊が死んでいる生まれながらの人間も、人が人として造られているため、全て動物的本能で行動するのではなく、ある程度コントロールすることのできる能力が与えられています。

しかし、生まれながらの人間は、自己否定されることを拒絶します。そして、神を拒絶します。自分自身を正しく知ることができず、神を正しく知ることができません。そういう意味で、完全に無能力です。霊が生かされた者は、自分自身の罪を自覚させられており、恵みによって罪が赦された喜びを知っており、神との交わりがあります。根本的に、自分自身に対する見方も変えられています。砕かれ、自我に対して死んでいく必要性を知っています。罪に支配された魂(精神)は、根本的に物事を正しく見ることはできません。自分が何者であるのか、そして生きる意味も、目的も知りません。

体と魂と霊、この三つはまたつながっているので互いに影響を及ぼし合います。

霊が生かされているクリスチャンは、霊的な領域でのトラブルに直面させられます。特に悪の誘惑、攻撃、その戦いを知るようになります。そして疑念を抱いたり、気落ちして何もできなくなってしまったりするようなこともあります。そこでは、正しく霊的な見方を行うことによって、つまり知性を正しく働かせることによって、トラブルを解決し、状態を回復させることができると思います。内住の御霊が知性に働いてくださることによってであり、知性によって御霊なる神が内に住んでいてくださることを認知することによってです。御霊なる神は、みことばに則して働かれるので、みことばをもって解決を得ることができます。

クリスチャンも、落ち込んで「うつ」になることもあります。しかしそれが、霊的な領域でのものなのか、精神疾患として「うつ」と言われるものなのか、見分ける必要があります。

以前から言われていたところでもありますが、現在、精神疾患と言われているものは、脳の神経伝達物質の異常によることから、身体疾患であるという見方の方が主流になっています。どちらかと言えば女性の方が「うつ」になり易いのは、男性よりも身体の変動が大きくあるからだということも言われています。それは、また後に少し詳しく書ければと思いますが、私自身も経験させられていることです。

あくまでも、身体の変動や異変からくる異常であれば、身体的疾患という見方でアプローチしていく必要があると思います。身体的な休息や、或いは日光を浴びたり、適度な運動や適切な食事などによって改善される場合もありますし、うつ状態や気分変調性障害という程度のものではなく、大うつ病という重い状態になれば、医学的治療も必要となるでしょう。

体も魂も霊も全てが重要であり、造り主であられる神ご自身が関心を持っていてくださいます。その関係についてある程度でも正しく理解し、この世の歩みにおいてキリスト者として直面させられるあらゆる問題に対処していくことができたら、と思っています。

クリスマス ~女としてイエス・キリストのご降誕を覚える~

前回、マタイの福音書の冒頭にあるイエス・キリストの系図について目を向け、通常ユダヤの系図にはない女性の名前が載せられていることを少々見ました。

その流れで、イエス・キリストのご降誕を覚えるこの時期に、女としてその事実をじっくり覚えたいと思います。

また、そうするのは、このブログのアクセス数、特に検索でのアクセス数が圧倒的に多く、現在もアクセス数を伸ばし続けている記事が、「サタンの誘惑と女の堕落」であることも心に留めてのことです。

パウロは、テモテへの手紙の中で、「アダムは惑わされなかった・・・」(Ⅰテモテへの手紙2章14節) と記しています。

創世記3章には、神であられる主が、食べてはならないと命じられていた木の実を取って食べたことについて女に問われたとき、女は「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と答えたことが記されています。

そして、神であられる主が蛇に仰せられたことが、「・・・彼は、おまえの頭を踏み砕き・・・」ということでした。ここに、イエス・キリストのことが語られています。そのイエス・キリストは、事実、聖霊によってみごもった処女マリヤからお生まれになりました。

人類の代表者であったアダムは、妻の声に耳を傾け、神である主の命令を破りました。アダムが罪を犯したため、人類はみな、アダムにあって罪の中に生まれてくることになりました。

罪と悪の支配から私たちをお救いくださる救い主は、罪のない聖なるお方でなければなりません。そのようなお方は、神以外おられません。

三位一体の二位格、御子イエス・キリストが、人となられる必要がありました。その際、アダムの性質を受け継ぐ男性によってではなく、神の聖霊によってでなければなりませんでした。

このような形で、イエス・キリストは女から生まれた人となられました。何と驚くべきことでしょうか。

私は、男女に優劣をつけるつもりはありません。男性と女性は異なっています。神がそのように造られたのです。女は男よりも「弱い器」であると、聖書は語っています (Ⅰペテロの手紙3:7)。悪魔もそのことを知って、アダムではなくエバに近づいていきました。そして、エバが先に堕落しました。

私はその事実を女として覚える時、神の恵みのみわざにただ驚かされます。救い主であられる主イエス・キリストによって、男も女もない、同等の救いに与かることができるのです。

弱い器である女としての自分を突きつけられるほど、私はただ神の恵みによる救いに、驚きに驚きが増し加えられ、ますます圧倒されるばかりなのです。

【いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。】ルカの福音書2章14節
                  引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会
 

イエス・キリストの系図に見る恵みの力

前回は、『救いは、ただ神の恵みによる 』について記しましたが、神の恵みの力について、思い巡らせられています。

恵みは力です。罪の支配を凌ぐ力です。

そのことは、新約聖書の一番初めに置かれているマタイの福音書の冒頭にある、イエス・キリストの系図にあらわされています。

そこには、罪深い人間の歴史があります。ユダヤの系図には載せられることのない女性、それもあえて不名誉な出来事に関わる女性の名前が載せられています。

しかしそこから見て取れるのは、ただ神の恵みによる救いのご計画が、罪と悪の支配に勝る力をもって進められてきた、ということです。

イスラエルの歴史は、まさに人は律法の行いによって救われることはできないという、罪また罪の歴史です。

神の民イスラエルは、ダビデ王のように、再びイスラエル王国を統一してくださる王を待ち望んでいました。しかし、彼らが他の国の下に置かれたのは、神への背きの罪ゆえでした。

人は、生まれながらに罪と悪の支配の下にあります。だから、神に対して罪を犯さずにはいられません。私たちはみな、罪から救われなければなりません。

父なる神は、人を罪から救ってくださる救い主を遣わしてくださる約束をされていました。その約束、そのご計画は、悪の策略、人間の罪によって断たれることなく、推し進められてきました。

この系図から罪と悪の恐るべき力を見るならば、同時に、そこから救い主なる主イエス・キリストの誕生へと至るこの系図に、それを一掃する恵みの偉大な力を見て取らされ、圧倒されます。

救いは、ただ神の恵みによる

先の、『ただ、神の恵みにより』でも記しましたが、救いは、100%神の恵みによります。

信仰による義認について確認しましたが、信仰も与えられるものであり、自分が信じるという行為をするのではありません。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 (エペソ書2:8,9)

自分が信じたのだ、となれば、その信じたという行いが誇りとなってしまいます。それは自分自身の栄誉となってしまいます。

救いが完全に神の恵みによることを知らなければ、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶ (ウエストミンスター小教理問答1) という、生きる目的に生きることはできません。造られたことも、救われることも、完全に神のみわざです。

自分は罪人以外の何者でもなく、自分にできることは何もないことを知り、イエス・キリストにのみより頼むものは、ただ神の恵みによる救いのこの上なさを知り、ただ神を礼拝し、賛美するのです。

自分の持てる何かに望みを置いているならば、神にのみ望みを置くことはありません。

救いは、ただ神の恵みによります。

自分の決心に頼ろうとして悩んでいるならば、自分が決心しようとすることはやめ、神に対する自分の罪を示して頂くこと、そして自分がただイエス・キリストにのみより頼まなければならないことを示してくださるよう、願い求めてください。

一貫した信仰義認の教理

信仰の父アブラハムについて、続けて見たいと思います。

アブラハムは、神ご自身から約束を与えられました。それは創世記15~17章にあります。特に創世記17章7,8節に、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」とあります。

「子孫」というのは、「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」(ガラテヤ書3:16) とある通り、イエス・キリストのことです。

イエス・キリストご自身は、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」(ヨハネ8:56) と仰られました。

アブラハムは、神による唯一の救いの道を信じました。彼は、イエス・キリストを信じる信仰によって、義と認められたのです。

この救いの道、信仰のみによる義認は、旧約時代から一貫したものであり、しっかりと理解しておくべき教理です。【もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます、しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。】ローマ人への手紙4章2-5節

そして、前回見たように、彼の信仰には行いが伴っていたのです。このことを強調するのは、よく知られている通り、あの宗教改革マルティン・ルターさえ、その点を記しているヤコブの手紙の解釈を誤ったからです。また、行いの伴わない信仰というものは、ありふれたものだからです。

【私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。】ヤコブの手紙2章21-24節

                  引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会

 

 

信仰の父アブラハムの義認

【これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である、あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。】創世記15章1-6節

彼は、信じました。神がそう言われたからです。彼も、彼の妻であるサラも年老いていました。彼は、望みえないときに望みを抱いて信じました (ローマ書4:18)。神が約束されたから、それは必ず成就することを堅く信じました (ローマ書4:21)。

不妊の女で、年をとってみごもったバプテスマのヨハネの母であるエリサベツは、イエス・キリストの母マリヤの親類でしたが、マリヤがあいさつに来たときに、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45) と言いました。

アブラハムの信仰には、行いが伴っていました。後に、彼は神からイサクを全焼のいけにえとしてささげるようにと命じられました。

アブラハムは、サラから生まれた子が跡継ぎになるという約束を与えられていました。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」(創世記21:12) という神からの約束がありました。ご自身がなされた子孫の約束がある中で、このイサクを死に至らしめるようなことを神は命じられました。

そして、アブラハムは、そのイサクを神が命じられたとおりに、いけにえとしてささげました。彼は神を恐れ、ひとり子をさえも惜しみませんでした (創世記22:12)。

それは、神がその子をよみがえらせることがおできになることをも信じていたからこその行動でした。「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」(へブル書11:17-21)

【彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。】ローマ人への手紙4章20-25節

                  引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会

基盤の曖昧さ

自分自身も含め、問いかけを行ってきました。

ここで記したいのは、何においても言えますが、誰もがはじめは未熟であるということです。生まれたばかりであれば、ほとんど右も左も分からない未熟な状態であって当然です。クリスチャンになったばかりであれば、クリスチャンであるとはどういうことか、本当に自分がクリスチャンなのかどうか、よく分からない場合が大半だと思います。

現在の教会に多く見られるのが、洗礼を受けたら奉仕活動に追われていき、よくわかってもいないのに、神さまのために、イエスさまのためにと、活動をしなければクリスチャンとしていられないような雰囲気にさえなっているような傾向です。奉仕によって成長させられるということもありますが、最も必要なのは、みことばに養われ、正しくその基盤が据えられることです。

そうでなければ、霊的に未熟なまま年月ばかりが長くなるだけです。最もの奉仕は、神を神として礼拝することであることを、覚えておきたいと思います。

キリスト教の中心的な教理は、信仰による義認です。まずそのことを、聖書のみことばから正しくしっかりと教えられ、理解する必要があります。奉仕活動をしていると安心、などということになってくれば、自分はこれこれのことをしているから救われている、という、自分の行いに重きが置かれていることになるでしょう。

随分前ですが、「あの人たちはあんなに熱心に、あれだけのことをしているのに、私はあんな風にはできない。自分は駄目なんだ…。」と落ち込んでいた姉妹がいました。度々そのようなことで、自分は駄目だ、自分は駄目だ、と言っていました。聖書のみことばを素直に聴き、従おうとする姿に、私自身尊敬の念を抱いていた姉妹です。しかし、信仰義認という、この中心的な教えをはっきりと理解しておらず、そのようなことで「自分は駄目なクリスチャン」と、常にぐらついていたことがわかりました。

最も大事なことは、神と正しい関係にあるか、ということです。

まず、この中心教理を聖書のみことばからじっくりと教えられ、理解させられなければなりません。

 

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問いかけ - 神を第一にするとは?③ -

引き続き、自分自身を含め、問いかけをしたいと思います。

神を第一にするとは、主なる神との関係を第一とすることであり、それはまず、神との交わりの時間を何よりも優先させるために、その時間を積極的に取り分けていくことであることを前回確認しました。

みことばを聴くこと、祈ることによる、霊なる神との霊の交わりによって、神というお方、イエス・キリストというお方をより知っていくのです。そうして、このお方が何を好まれ、喜ばれ、何を嫌われ、退けられるのか、ということを知っていき、自分の思いではなくみこころがなること、みこころに適うことを願い、それが行動にもあらわれてくるのです。

ところであなたは、みことばを聴くことを喜びとしているでしょうか。しばしば、祈りには長い時間をかけるけれども、聖書はあまり読めていないとか、説教は短い方が良い、などということを聞きます。以前の私は、誰よりもそうであったことを思います。

はっきり言うと、みことばを聴かずに祈る祈りは、聖書の神への祈りとは言えません。人の話を聴こうともせずに一方的に話をしてくる人に対して、私たちは好感を持つことはできません。自分のことを知ろうともせず、自分の話を聞く気もない人と、会話のキャッチボールなど到底できません。神というお方を知ろうと、ご自身のみことばを聴くことを退屈がりながら祈るということは、自分自身がそのようなことをしていることでなくて何でしょう。

しかしそもそも、聖なる神に近づき、祈るためには、絶対的に必要なことがあります。そして、このことも本当に救いを理解しているか否かを問われる、主要点であります。

あなたは、自分が聖なる神に赦され、義と認められ、ご自身と和解させられるために何が必要であったか、知っていますか。「イエス・キリストの血」の絶対的重要性を知っていますか。その意味を、その尊さを本当に知っていますか。

その尊さを知らないならば、みことばを聴くことも退屈でしかないでしょう。そうであれば、主なる神を第一とすることなど到底できません。

私は、そのことを痛く突き付けられました。あなたはどうでしょうか?

問いかけ - 神を第一にするとは?② -

神を第一にするとは、まず主なる神との関係を第一とすることであると、前回確認しました。

それは、罪によって神との関係が切り離されていた状態とその結末の悲惨さを知り、神との関係が回復されたこと、神との和解を喜ぶ者が、必然的に第一のこととして何よりも大切にしたいと望むことであるはずです。

信仰者は、造り主であられる唯一まことの神が、聖なるお方であられ、罪や悪に対して目をつむることは決しておできにならないお方であることを知っています。信仰者は、罪と悪の奴隷である自分が、聖なる義なる神に対してどれほど罪汚れにまみれた救いようのない者であり、赦しを得ることなど絶対不可能な何の良いところもない絶望的な存在であることを知らされ、ただ聖なる義なる神の御子イエス・キリストだけが、神と自分とを和解させるために神ご自身が差し出してくださった道であることを知っています。

救われる以前の状態と、そのようなところからただ恵みによって救ってくださった神というお方を知り、救い主であられる主イエス・キリストというお方を知っているから、その救い ─ 主なる神との親しい関係 ─ を何よりも尊いこととするのです。

では、神との関係を第一とするとは、具体的にどのようにすることでしょうか。大切なお方との関係を第一とするために、どのような行動を取っていくでしょうか。

まずは、そのお方と過ごす時間をなるべく多く取ることができるように、努めるでしょう。無駄にしている時間はないか、洗いざらい見直し、改めるでしょう。そして、まず愛するお方とのコミュニケーションの時間を何よりも優先させるでしょう。何を、またどんな活動を差し置いても、です。

私たちが聖書を読む第一の理由は何でしょうか?私たちが祈る第一の理由は何でしょうか?そこに主なる神との生きた関係があり、そのお方を知る喜びがあるでしょうか?

じっくり吟味したいと思います。

問いかけ - 神を第一にするとは?① -

ここまで記してきたことに照らして、自分自身を含めて問いかけをしたいと思います。

「神を第一に」とよく言われますが、それは一体どういうことでしょうか。何をもって神を第一にしていることになるのでしょうか。そのように言う時、具体的に何を第一としているのでしょうか。
それは、そもそも救いとは何か、本当に救いを理解しているのかを問われていることになるでしょう。
本当にそのことを喜んでいるならば、迷わずに答えられるはずです。記してきているように、私はその問いに対する明確な答えを持っていなかったために、非常に苦しみました。

救いにおいて、第一義的なこととは何でしょうか。私たちに救いが必要な理由、その最も重要なところとはどこにあるでしょうか。

私たちに救いが必要な理由、それは第一に、神との関係が失われているためです。

罪人として生まれてくる人間の悲劇は、造り主であられる神と敵対関係にあり、本来あるべき関係が絶たれ、関わりを持つことが一切できない状態にあることです。それが罪ということです。

生まれながらの罪人は、聖なる神との交わりを持つことが全くできない状態にあります。罪人は、唯一まことの神を神とは認めず、神は罪人に対して聖なる怒りを覚えておられます。決して歩み寄ることのできない、完全に切り離された関係にあるのです。

神とそのような関係であったことを知っているでしょうか。神に対して、いかに自分が醜い罪人であり、聖なる神の御怒りの下にあって、その関係を回復させること、和解へと至らせるすべを全く持ち合わせてはいない者であることを悟ったことがあるでしょうか。神ご自身が備えてくださったイエス・キリストによる唯一の救いの道に、自分にとっての生死に関わる絶対的な必要性を本当に覚えたことがあるでしょうか。そして、神との和解を喜んでいるでしょうか。

神を第一にするとはどういうことでしょうか。救いの喜び、神との和解の喜びを本当に知る者とされた今、私はこのように答えます。それは、主なる神との関係を何よりも大切にすることです、と。

神との正しい関係によるのでなければ、「神を第一に」と言いながら、全ては自分から発し、自分に帰結してしまうこととなります。結局は自分が第一になってしまいます。

救いの喜びを知る者とされた今も、常に問われながら、悔い改めながら、歩む日々です。

 

なぜ、イエス・キリストを信じるのか

クリスチャンホームに生まれ育った私にとって、イエス・キリストを信じることは、ある意味当たり前のことのようでした。

そのような私自身が、問われていたことに対して、以下のように答えてはいても、事実、本当にはわかっていなかったために、非常に苦しみました。

・あなたは、どこに救いの必要性を感じていますか?
 - 自分には罪があり、罪から救われることが必要であると思っています。

・あなたにとって、イエス・キリストはどのようなお方ですか?

 - 私の罪のために身代わりに十字架にかかり、死んでくださった、私の救い主であり、私の主です。

・救いのために、イエス・キリストが必要な理由は何ですか?

 - 神の御子であられるイエス・キリストだけが、私を罪から救うことのできるお方だからです。

・あなたはなぜ、イエス・キリストを信じるのですか?

 - 自分の行いによって救われることはできず、救いはイエス・キリストを信じる信仰によってのみであるからです。

このように答えてはいても、私には自分が答えているこれらのことの意味が、わかってはいませんでした。神というお方を、そのとおりには知らず、神に対して自分がどのような者であるのかが、わかっていなかったからです。

私はその頃、自分がわかっていないために苦しんでいることを、誰にも言えませんでした。あなたはどうですか?

私は、わからずに苦しんでいる方々のことを覚え、祈っています。

 

神との和解

「神との関係」ということについて、焦点を当てて記してきました。

生まれながらに、私たちが神とどのような関係にあるのかを十分に取り上げずに、イエス・キリストによる救いの必要性はわからないからです。

しつこく同じようなことをくり返すようですが、この深刻で悲劇的な真実を知らない限り、救いの意味も、尊さも、わかりません。そして、本来の生きる目的に生きることはできません。

生まれながらに罪人である私たち人間は、造り主であられる神を、自分の造り主とは知らず、認めず、神に対して不敬虔な存在です。そのような罪人に対して、神は正義の怒りを覚えておられます。本来の親しい関係が失われており、敵対関係にあり、人間は造られた目的、生きる目的を失っています。

人は、神によって特別な存在として造られましたが、神よりも悪魔の言うことに耳を傾け、まず女であるエバが堕落し、人類の代表者であるアダムも堕落しました。そのアダムの堕落により、人は皆、罪の中に生まれてくる存在となっており、神との関係が切り離された状態にあります。絶縁状態にあるのです。

本来のあり方が取り戻されなければなりません。神との和解が必要なのです。

神と和解させられるためには、神に対する罪を赦して頂き、さらに義と認められなければなりません。神は、完璧な義なるお方だからです。

罪赦され、義と認められるため、私たち人間はどうしたらよいでしょうか。なす術がありません。神の律法によって罪に定められています。律法の行いによって義と認められることはできません。

人として律法の義を全うされた、罪なきイエス・キリストによってのみ、神から罪赦され、義と認められるのです。このお方に自分のすべてがかかっているのです。

イエス・キリストは、自分が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受け、死んでくださいました。御怒りはなだめられ、神はこのお方を死者の中からよみがえらせられました。

このお方にのみ信頼する者を、神は義とみなしてくださいます。このお方のなさったこと - このお方が完全に神に従われ、義を尽くされたこと- その義をその者の義とみなしてくださるのです。何と驚くべきことでしょうか。

こうして、神との和解がなされるその喜びを、知って頂きたいと願います。

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悔い改め

【そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。】マタイの福音書3章1-3節

イエス・キリストの先駆者として遣わされたバプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを説き、悔い改めのバプテスマを授けていました。

悔い改めとは、「向きを変える」、「思いを変える」ということです。造り主であられる神を覚え、神に背を向け、神など関係なく自分の心の赴くままに生きていたことを、見直すのです。

人々は、自分の罪を告白し、バプテスマを受けていました (マタイ3:6)。「告白」は、もともと「神が見ているとおりに見る」という意味があります。自分の視点ではなく、神の視点で自分を見させられたとき、その罪深さに心刺され、心砕かれます。そして、そのことを表します。

なぜ、主イエス・キリストの先駆者として、人々の悔い改めのためにヨハネが遣わされたのでしょうか。このことは、非常に重要です。

バプテスマのヨハネは、人々にその罪を指摘し、悔い改めへとその心を導きました。悔い改めのない者たちを糾弾し、悔い改めにふさわしい実を結べ、と叱責しました (マタイ3:7-10)。罪の自覚と悔い改めを飛ばして、イエス・キリストを主として迎え入れる心が備えられることはありません。

真の悔い改めがなければ、心に天の御国の王であられるこのお方をお迎えする少しの余地もないのです。心砕かれ、悔い改めるのでなければ、このお方に支配して頂く必要を覚えません。罪に支配されたまま、罪を好み、神に罪を赦して頂く必要を覚えません。

このお方なしに、罪を赦して頂くことはできません。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(へブル9:22)。聖いイエス・キリストの血によってのみ、私たちは神から罪を赦して頂くことができるのです。

福音は、「イエス・キリストを信じなさい」から始まるのではありません。

イエス・キリストご自身もそうであられました。

【この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」】マタイの福音書4章17節

                  引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会

 

 

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自分が描く神の理想像

「神を信じる」と言ったときに、自分が信じる神はどのようなお方でしょうか。

何でも受け入れてくださる神。自分のしていること、思っていること、弱さも失敗も、赦し、受け入れてくださる神ならば、信じやすいのです。

しかし、受け入れてくださらない神となると、そんな神は神ではない、というような態度となってしまうのです。それは、神を信じているという人々の中に、しばしば見られる光景であり、私自身もそうでした。

自分が良いと思ってしていること、願っていること、それらが受け入れられないとなると、反発します。それが、自分の描いている理想の神を信じ、聖書の神、唯一まことの神を信じ、敬ってはいない人の姿です。

自分の描いている理想の神を信じ、満足しているならば、神との和解の必要性、救いの必要性はわかりません。

神の愛、恵み、あわれみという、自分の理想にかなうところばかりが唱えられ、イエス・キリストを信じなさい、と言われても、その特別な必要性がわかりませんし、何のために、何をどう信じるのかもわかりません。

聖書の神は、聖なる義なるお方であられ、罪や悪に対しては、必ず報いられます。しかし、悔い改める者にはあわれみを示されるお方であられます。

悔い改めというのは、ただ、私は悪いことをしました、罪を犯しました、ごめんなさい、と、自分が悪いと思ったこと、罪だと思ったことについて、謝るというようなことではありません。

神に対する罪は、そもそも神ご自身に対する認識の誤りということがあります。神がどういうお方であられるか、正しい認識があるならば、人は神を神とし、神に従うことに積極的になるはずです。

神に対して自分が誤った認識をしていたことへの自覚、自分自身に対する認識の誤りへの自覚、そして神と自分との関係が正しい関係にないことへの認識が生じてこそ、悔い改めへと向かわせられるのです。

神は、どのようなお方であられると認識しているでしょうか。神に対して、自分はどのような者でしょうか。

救いの尊さがわからない理由

救いについてよくわからない、それは、私自身がそうでしたけれども、そもそも自分がどのような状態にあるのかを知らないからです。

特に、造り主であられる神と自分の関係性において、どのような状態にあるかを知らないからです。そしてまた、知りたがらないからです。

私たちが何か救いを必要としたとき、求めるのは愛の手です。自分を受け止め、自分を理解し、寄り添ってくれる存在を求めます。

そこで愛の神が登場します。神はまさにそのようなお方であられるのだと。

確かにそうですが、そこから入ったのであれば、神ご自身が差し出してくださった救いの道の必要性がわかりません。

しかし問題は、私たち人間は、罪によって神との親しい関係が失われ、神の御怒りの下にあるということです。

神は聖く義であられるお方なので、罪に対して公正なさばきをなされます。

私たちは神に従うことができず、そもそも従おうともしません。縛られたくない、自分の人生なのだから、自由に生きたい、と、自分の生がどこからきたのか、そんなことはお構いなしに生きています。

法律に従わず、反することをすれば、罪に定められ、相応の刑罰が下されるように、神の律法に従うことをしようともしない私たちは、罪に定められており、神によってさばかれなければならない存在です。公正なさばきをなさらない神は、神ではありません。

神を神とせず、神の律法に完全に反し、罪を犯している人間は、神の御怒りの対象、さばきの対象なのです。

そこで、神ご自身が備えてくださった救いの道が絶対に必要であることを知るのです。

神は、ご自分の御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされ、人として完璧に神に従われたキリストを、私たちの身代わりに十字架刑という罪の刑罰へ至らせられたのです。神は、愛するひとり子に、私たちの罪を背負わせ、御怒りを注ぎ出され、さばきを下されたのです。

ここにこそ、神の愛が示されたのです。