生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

原罪 - 人類の最初の代表者アダム -

続いて、『原罪』について、見たいと思います。
アダムは、妻のエバから食べてはならないと神から命じられていた木の実を差し出され、戒めることもせずその実を食べ、人類に罪が入りました。
『原罪』について、まずD.M.ロイドジョンズ師によるローマ書講解5章から引用したいと思います。
ロイドジョンズ師は、ローマ書5章12-21節の区分について、〔この区分が、聖書の中でも、原罪の教理を教える代表的な箇所〕だと、そして12節については、〔神学という見地からすると、全聖書の中で最も重要な節の一つである。〕と言っています。
そしてその12節について、〔罪が普遍的に存在しているということ〕、〔死が普遍的なものであること〕、この二つの事実の説明がここに見出されると言います。

 

【そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、─それというのも全人類が罪を犯したからです。】ローマ人への手紙5章12節             (聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会

 

これは、〔罪と死の双方が人間の生に、また、人類の物語の中に「入り」込んだのは、ひとりの人アダムが行なった不従順の行為の直接的な結果としてである〕こと、〔このひとりの人のその一つの行為、その一つの不従順、その一つの罪こそ、死を私たち全員の上にもたらしたものであり、私たち全員を罪人に指定したものである。それは単にアダムが私たちに罪深い性質を受け継がせたというだけのことではなく、神が、アダムと私たちの関係のために、私たちを罪人と「指定された」のである。そして、その罪に対する刑罰は、死という形で人類全体に臨んでいるのである。〕とあります。
これで終わりではなく、アダムとの古い関係と同じように、「第二のアダム」、「最後のアダム」であられる代表者キリストとの新しい関係にあることについて述べられているのですが、今回は、『原罪- 人類の最初の代表者アダム -』について、非常に簡単でありますが、覚えておくために見ました。

                       D.M.ロイドジョンズ 訳 渡部謙一 
                         ローマ書講解5章 救いの確信 
                               いのちのことば社

 

“罪人と言われても、それがアダムにあってということで、自分の責任であるわけではないという安心を覚える。”という話がなされているのを聞いたことがありますが、そこは安心を覚えるところではないのではないはずです。
罪人と指定されている者たちは、そのままであるならば、それぞれがその罪の刑罰を受けるのです。
キリストが身代わりに罪の刑罰を受けてくださり、義なるキリストにある者とされていることに安心を覚えていたいと思います。

堕落の結果 - 神の女への宣告 -

【女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」】創世記3章16節(聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会

やはり、D.M.ロイドジョンズ師のエペソ書5:22-33講解「結婚することの意味」から引用します。実際、前々回に引用した分の直前に以下のことが語られています。

〔もし罪と堕落がなかったなら、子を産むことはおそらく苦痛を伴わなかったろう、と推測できるであろう。『あなたは苦しんで子を産む。』しかし、ここで今私たちが問題としていることは、『しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配する』という点である。ここからある事が言われているのがわかる。主人としての性質、堕落以前にすでに確立していたかしらであり、リーダーであるということが反復されているだけでなく、『彼は、あなたを支配する』ということが強調されているのである。ここに見られる新しい点は、女が男に仕えるという面が、堕落の結果いっそう強まったということである。〕

そうでもないような場面で、女性の権利が奪われていることについて強く主張されることがしばしばありますが、聖書にははっきりと造り主なる神による創造の秩序と、堕落に対する神の宣告が記されています。

男性が適切にリーダーシップを取ることができないことや、女性を不当に扱うような場面も確かに実際多く見られてきていることでしょうけれども、女性の扱いに対して、聖書はいかに配慮に富んでいるかということも見ることができます。

過度に権利を主張する前に、創造の秩序と、堕落の結果として招いている事態を、謙虚に受け止めなければならないことを思います。

サタンの誘惑と女の堕落

もう一度、創世記3章1-7節から、サタンの誘惑とそれに惑わされて先に堕落した女について見たいと思います。

【さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。】創世記3章1-7節 

                                                                              (聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会

サタンは、惑わしやすいと知っていた女(エバ)に近づき、巧みに誘惑をしました。
サタンの巧妙さは、恐ろしいものです。回りくどい言い回しで、少しずつ心をくすぐり、高慢へといざない、神から引き離そうという働きは、今も私たちに対して行われている手口です。

エバはサタンの巧みな働きかけにより、「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好まし」くなりました。このようなことは、常日頃、私たちに起こることです。

フェミニスト教師は、アダムもいっしょにいたのだから、惑わされたのはエバだけではないと説教しますが、Ⅰテモテ2章14節には「また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とはっきり記されています。
前回引用したD.M.ロイドジョンズ師のエペソ書5:22-33講解「結婚することの意味」の続きにあるように、“パウロ意見の個人にすぎない”というようなことが言われることを、私も耳にしますが、ロイドジョンズ師が言っているように「聖書は霊感された無謬の神の言葉であると信じているなら、使徒パウロのことを、この世がするような方法で言ってはならない。彼が記す時、旧約聖書を引用しているだけでなく、霊感された使徒として書いているからである」のです。

教会内にも、女性の有能性を高らかに主張する女性たちがいます。
しかし、どんなに有能な女性も、罪がなかったエバに勝る女はいません。そのエバが惑わされ、こうして最初に堕落したのです。

この聖書に書かれている事実を否定すること自体、悪の思うつぼになっているのです。

私たちキリスト者女性は、しっかりと覚えておかなければなりません。

堕落の起源

生きる目的が取り戻され、その目的に生きる者として、聖書の真理を追い求めていきたいと願っています。
そこで改めて、堕落の起源について、聖書が語っている事実を見ていこうと思います。

【さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。】創世記3章1-7節 

                      (聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会)

 

この堕落の実体について、20世紀最大の説教者の一人と言われるD.M.ロイドジョンズ師は、エペソ書講解5章22-33節「結婚することの意味」の中でこのように語っています。

〔 堕落の実体、エバに起こったことが何であったかと言えば、悪魔に巧みに取り入れられ、その勧めを聞いて、彼女は自分のすべきこと、これまでしてきたこと、すべきこととして教えられていたこと、つまりこの問題をアダムに相談することをする代りに、自分で決定を下し、リーダーになったのである。アダムに問うことをせず、自分で処理した結果、当然そうなるべくして、彼女は堕落した。彼女は彼をも堕落に巻き込んだため、人類全体が堕落した。こういうわけであるから、ある意味で、原罪は女が結婚関係における自分の位置、立場を理解するのを怠ったこと、奪われた権威、権力、立場が悲劇と無秩序を生み出したのである。この事は創世記3章16節に述べられているだけでなく、女性が上に立ち、教えたり説教したりすることに関して、使徒がテモテへの手紙第一の2章で論じている論拠にもなっている。〕

これは、[ 2. 創造の秩序] の中で語られ、その前に、聖書には男がかしらであり、リーダーシップをとる立場にあること、神が男をそのように造り、男がそれを果すことができるように、機能と能力とそうする性質を与えられ、女を男の補助者となるように造られた、と教えられていることが説明されています。

                   D.M.ロイドジョンズ エペソ書5:22-33講解 
                            「結婚することの意味」 
                        訳 鈴木英昭 いのちのことば社

私自身も含め、キリスト者女性はこのことを重々覚えておくべきであり、フェミニスト教師と共に聖書に反論をすべきではありません。

この堕落の起源の事実を見ればこそ、このような女をも捨て置かず、同等の救いをお与えくださった神をほめたたえ、神に従いたいと思わずにはいられないはずです。

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ただ、神の恵みにより

「恵み」ということばは、「愛」と共に、キリスト教界においてやたらめったらに飛び交っています。その現状を「恵みの安売り」と批判する牧師先生もいますが、私も全くその通りだと思います。

そこで、救いにおける神の恵みとは如何なるものか、その神の恵みを知る者とはどのような者か、学ばされてきたことを短く記したいと思います。
救いは、完全に神の恵みによります。

しつこいようですが、生まれながらの私たち人間は、あまりにも罪深く、徹底的に腐敗していて、全く神から心にかけて頂けるような存在ではありません。

罪深く、価値のない者で・・・などと、私自身、以前は軽々しく言っていました。しつこく言われても、本当にはわかっていませんでした。しかし本当に深くそのことを悟らされた後は、そのように易々とは言えなくなりました。恩顧を受けるに全く価しない者であることを悟らされる時には、言葉にならない苦痛が伴います。

罪を認めており、信仰を持っている自分というものが主体となっているなら、救いが完全に神の恵みであるとしてはいないのです。そうではないと自分では思っていても、無意識に自分の信仰を誇りとしてしまっていることは多いと思います。私自身がそうでした。

信仰も与えられるものであり、自分が信じると決心するのではありません。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 エペソ書2章8,9節

神がどれほど聖いお方であられるかを少しでも知り、自身がどれほど汚れにまみれた醜い者であるかを悟らされることなくして、神の恵みを知ることはできません。

イエス・キリストを信じる信仰

これまでもそうでしたが、私の周りの身近な教会員の方々を意識して記しています。
諸々の活動に忙しく、みことばにはあまり関心がない多くの方々に、私は悲しみを覚えますし、主はどのようにご覧になっておられるでしょうか。イエス・キリストを信じる者は、主のことばを慕い求めるものではないでしょうか。

 

人が義と認められるのは、律法の行ないによってではなく、信仰によってです。
何を信じるのかと言えば、イエス・キリストのすべてです。

イエス・キリストについては、旧約聖書から聖書全体を通して語られています。キリストは、律法と預言者を成就されました。そのことが新約聖書で語られています。ですから、旧約聖書新約聖書が語る通りの真理を聞き入れることです。

聖書はいくらでも、どのようにでも解釈できます。全体を捉えずに、自分の信じたいように信じるとか、信じられることだけ信じるというのでは、信仰とは言えません。

一人一人が信仰へと導かれる道筋はそれぞれですが、共通の経験があります。

口先でイエス・キリストを信じる、と言うだけでは、イエス・キリストを信じる信仰とは言えません。

まず、自分の抱いてきた自尊心が打ち崩され、自分は神に対して罪ある者であり、神の御怒りの下にあること、永遠の死という神のさばきの対象であるのだと悟ることです。罪の自覚がないところに、イエス・キリストを信じる信仰へ至らされることはありません。

神に対する罪を自覚したら、罪が神との関係を切り離していることを知ります。神に向き、神との正しい関係を求め、自分の罪が神に赦されなければならないことを痛切に知り、罪を言い表します。

律法の行いによっては、罪に定められるのみであり、キリストの血、キリストの義によって、罪赦され、義と認められること、イエス・キリストだけが自分を救うことができると、キリストにのみ信頼します。

他に頼るものは何もなく、ただイエス・キリストによってのみ、神と和解させられ、本来あるべき親しいお交わりに生きることができると、キリストのみに依存する者が、イエス・キリストを信じる者です。

神の右の座に着かれたイエス・キリスト

イエス・キリストは、救いのみわざを成し遂げられ、高く上げられ、すべての名にまさる名を、父なる神から与えられました。イエス・キリストは、もともと神ご自身の御子であられ、神であられますが、人として、人を救うそのみわざを成し遂げられ、栄光の座に着かれました。

万物は御子にあって造られました。究極的にすべてを統べ治めておられるのは、神であられます。そのご支配が御子に渡され、最後の審判の時にさばきを下されるのも、イエス・キリストであられることが語られています。

イエス・キリストを信じ、救われた者は、このイエス・キリストのうちにあり、最終的に、キリストご自身の栄光にあずかるのです。「栄化」という教理、このことも現在ほとんど耳にしません。

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

救いは、神と切り離され、罪と悪の支配にあって、罪と汚れにまみれていた人の罪が赦され、義と認められ、キリストにある者として、最終的にご自身の栄光にあずからせて頂き、顔と顔を合わせて主とまみえるのです。キリストとともに、御使いさえもさばくことになり、新しい天と地を治めることになるのです。

救われた者は、永遠に神を喜び、神をほめたたえて生きるのです。

キリストの復活

キリストは完全に死んで、墓に葬られました。そして、よみがえられました。死者の中からからだをもってよみがえられたのです。これは、罪人がこのイエス・キリストによって罪赦され、さらに義と認められることを確証する事実です。

キリストは、罪と悪に勝利され、死を打ち破られました。律法の義を全うされ、そのキリストに罪の完全な処罰がなされ、神の怒りが完全に注ぎ出されてなだめられ、神は満足されたのです。キリストの人としての生涯は、父なる神のみこころにかなう、完璧なものでした。神の御子であられ、神ご自身であられるというご自分の権利を主張されることもなさらず、徹底的に身を低くされ、十字架の死にまで完全に服従されたのです。

それゆえ、神は、このイエス・キリストがなされた全てのことに完全に満足され、このお方をよみがえらせられたのです。

私たちの代わりに、神を愛し、神のご栄光だけのために人として歩まれ、完璧に神の義を尽くされたイエス・キリスト。だからこそ、神はこのお方をよみがえらせなさったのです。

罪のために身代わりとなって刑罰を受けて死なれ、よみがえられたイエス・キリストの義が、主イエス・キリストを信じる者の義となり、父なる神から義と認められるのです。

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イエス・キリストの卓越性

18世紀のリバイバルの時代の大説教者ジョナサン・エドワーズによる説教集「イエス・キリストの卓越性」を読んでいて、何と私たちはイエス・キリストというお方を知る知識に乏しいことかと思わされます。

邦訳されているものは絶版となっているこの書には、驚くべきキリストの内にある異質の卓越性の結合(栄光と謙遜、威光と柔和、神に対する最も深い畏敬と神と同等であること 等)、キリストの行為に現れた卓越性の結合、そして適用について記されています。

一番最初に、ヨハネの黙示録5:5,6から、「ユダ族から出た獅子」、そしてまた「ほふられたと見える小羊」と呼ばれているイエス・キリストについて、このみことばを基にその卓越性を説いていくことが述べられているのですが、「獅子」と「小羊」という非常に異なった種類の生き物の独自性について、
『獅子は力と、堂々たる外見と声とにおいて卓越しています。』
『小羊は食用に適し、わたしたちの衣服として格好の素材を生み出し、神に捧げるいけにえとしてふさわしいという優れた性質を備えている上に、温和で我慢強い動物であるという点で傑出しております。』とあります。

このそれぞれの卓越性が、神-人なるキリストの内にどのように結合し、どのように行為として現れているのか、それはただただ驚くべきことであり、キリスト者としてそのキリストの卓越性を引き下げてしまうような安易な理解でいてはならないことを思います。

この書の中から、これまで記してきたことの続きとして、少しの部分を取り上げたいと思います。

前回、イエス・キリストのご降誕に思いを巡らしましたが、イエス・キリストが貧しい処女の胎内に宿られ、お生まれになった際に家畜小屋で飼い葉桶に寝かされたお姿は、顕著に小羊として現れたことを示していること、しかし、この幼子は、吠えたける獅子であるサタンに打ち勝ち、勝利すべく生まれたもうたお方であられること、このお方のご降誕の際に、御使いの群れが、御子のご降誕の目的を歓喜に満ちた歌声で宣言した、そのところに、神たる威厳が示されたのだということです。

前々回には、キリストの十字架について記しましたが、その卓越性は、イエス・キリストのご生涯において現され、最もあの十字架において現されたことを常に忘れないでいたいと思います。こうあります。

『キリストは、罪が神にもたらした不名誉を取り去るために死なれた時ほど、神に敵対する罪への憎悪をはっきりと示されたことはありません。しかしながら、その時ほど彼が罪に対する神の憎悪と怒りの、恐ろしい結果をその身に受けられたことはないのです。ここに、キリストの内にある異質の卓越性、すなわち神への愛と罪人らへの恵みとの結合が現れているのであります。』

『小羊のごとく屠り場に引かれて行った時ほど、キリストが敵を滅ぼす著しい力を帯びた獅子としてみ姿を現されたことはありません。彼は最も弱いときにこそ、最も強かったのです。敵どもから最もひどく苦しめられたとき、彼らに最大の破滅をもたらされたのです。ーしたがって、キリストが最後の苦しみにおいて神にご自身を捧げられた時、異なる卓越性の驚嘆すべき結合がその内に明示されたのであります。』

                                                                          ジョナサン・エドワーズ  訳:飯島 徹
                                                                         「説教集 イエス・キリストの卓越性」 
                                                                                      キリスト新聞社

 

クリスマス -イエス・キリストのご降誕に思いを巡らす-

幼い頃から私が経験してきた〔教会のクリスマス〕を含む現実を見つつ・・・

アドベントの最後の週ということで、その中で思い巡らしていることを、書き記したいと思います。

 

クリスチャンは、ありもしないおとぎ話を信じて生きている能天気者ではありません。
確かに教会内には、「信仰」を取り違えて、物事の本質が見えておらずに、能天気な考え方をしている人々が少なからずいます。

クリスチャンは現実を直視します。或いは、現実を直視できるのがクリスチャンであり、正しく現実を見ることができるのがクリスチャンです。

クリスチャンでない人は、様々なことで気を紛らし、明るく楽しい気分になって、または何でもいいのでスカッとした気分になって、嫌な現実から目を反らし、暗くネガティブな気分を麻痺させようとします。

クリスマスはまさに、世界中でそのようなことのために使われています。そして教会でさえ、そのような傾向があります。
しかし真のクリスチャンは、現実を現実として捉えず、楽観的に構えているのではなく、現実に真っすぐ向き合いながらこそ、驚くべき奇跡を信じ、喜ぶことができるのです。

この世界の現実は、罪と悪に支配され、虜にされている事実を物語っています。なぜ、残酷で悲惨なことがくり広げられるのか。小さな集まりであっても、人が集まるところには、何かしらの問題が絶えません。神を神としない人間の自我という罪は、大なり小なり問題を引き起こします。

人間は、昔から今まで何も変わりません。そしてこの世の世界は、本質的に何も変わってはいません。

罪と悪の虜となっている、それがこの世の現実であり、人間の現実です。

そして悲しく痛ましいこの現実を直視すれば、神は沈黙され、もはや望みも与えてはくださらないように思えます。救い主イエス・キリストが、人としてこの世にお生まれになった当時も、そのような状況であったことに思いが向かわせられます。

なぜ救われなければならないのかを知らず、何から救われなければならないのかもわからないこの世の人々の中に、救いの光が投じられたことは、驚嘆すべき出来事です。

当時、選ばれた民であったイスラエルの国の人々は、彼らの罪ゆえでありましたが、様々な国からの制圧下にある長い歴史の中で、イスラエルの国を再興してくださるのが、約束されていた救い主だと考えていました。

現在、人々は「救い」と言ったら何から救われることを連想するでしょうか。人によって違うでしょう。自分自身の現実の中で直面している問題から救われたい、と思うでしょう。何も問題を感じていなければ、救いなど必要としていないと言うでしょう。

しかし、いずれにしても問題の本質が見えていないのが、そもそもの人間です。

ここまで記してきた通り、問題の本質は、罪と悪の支配にあり、罪によって本来あるべき造り主なる神との関係が失われていることです。

ならば救いとは、神との関係が回復されること、神との和解です。造り主なる神との親しい交わりが取り戻されること、この根本的なところの解決なくして、あらゆる問題が解決されることはないのです。

なぜ救われなければならないのか、それどころか神など必要ない、神が提示しているような救いなど必要ない、と拒絶するのが、生まれながらの人間です。

そのような私たち人間のために、一方的に愛するひとり子を遣わしてくださった、神の熱い御思いに深く思いを馳せると、言葉にできないものが心の底から沸き上がります。

教会内の人々も、救い主の降誕を覚える、と言いながら、自分が明るく楽しい気分になって、何か気を紛らわしているのではないでしょうか。或いは、もう十分わかっており、自分は毎年きちんと本当のクリスマスを覚えていると思いつつ、何かマンネリ化しているような気持ちになってないでしょうか。或いは一大イベントの忙しさに、静かに思いを巡らすことができないのではないでしょうか。

それは、神の熱い御思いを本当には知らないからです。そうであるならば、教会の外の人々に伝えることのできる特別なメッセージを持っているとは言えません。

静かに、じっくりと吟味し、この世の現実を、自分自身の現実を、深く見させられれば見させられるほど、神の熱き御思いが、どんどん強く迫ってくるはずです。

年を重ねるごとに、父なる神が御子イエス・キリストをこの世にお送りくださり、神の御子イエス・キリストが人としてお生まれになった事実から、ますます驚きをもって、その神の熱き御思いを知っていく者でありたいと願います。

キリストの十字架

十字架刑は、奴隷や重罪人などの刑であり、大変な苦痛を味わいながら死に至る、死刑です。

この十字架刑によって、イエス・キリストは罪人の身代わりとなって死んでくださいました。罪なきお方が、人々の重罪を負って、代わりにその罪の刑罰を受けてくださったのです。

キリストの十字架には、神の義が現されていると、使徒パウロは記しています(ローマ人への手紙3:25,26)。神は義なるお方であられ、罪人を救うために、罪をさばかないまま救うような矛盾したことをなさるお方ではありません。罪汚れにまみれた人を救うため、人となられた義なるイエス・キリストにその罪を負わせ、罪を罰せられたのです。

神は、愛であられると同時に、義であられます。

十字架には、神の義が現されています。神の義、神の律法。そのことを知らないならば、キリストの十字架の真の意味はわかっていないことになります。

キリストの御苦しみは、罪を背負い、神の刑罰、御怒りを受け、父なる神と断絶されることでした。神と断絶させられることの恐ろしさを知っているでしょうか。

私は、神の聖なる律法、聖なる光に照らされて、もはや耐えられないような自分自身の罪の現実を見せられ、神にさばかれ、断絶させられ、滅びゆく以外にないのだと、その言いようのない恐ろしさに、気を失って倒れるばかりになったことがありました。その時、キリストの十字架、その御苦しみの意味を真に知らされたのです。

だから、キリストの十字架が薄っぺらなものとしかされないことには、非常に憤りを覚えます。

イエス・キリストが味わわれた苦しみを経験したことのある者はいませんし、わかりえません。私たちがそこに至らないようにと、父なる神は御子を引き渡され、御子イエス・キリストは身代わりとなられました。

しかし、神の御前に自分がどれ程おぞましい存在であるか、そしてそのような自分が当然なされるべき処罰、その処罰を代わりに負ってくださった主イエス・キリストの十字架の御苦しみ、父なる神との断絶、その何ほどかでも知らずして、神との和解の喜びを知ることができるでしょうか。

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キリストの血

罪の贖いのためには、全く欠けのないいけにえの死、身代わりの死が必要です。

私たちは、神に対して罪を犯しているので、まず神に罪を赦して頂かなければなりません。罪と悪の奴隷である罪人は、罪と悪に従って生きているため、神に従うことができず、それどころか反逆し、罪を犯すのです。罪が処理されなければ、到底、神の所有のものとされることはありません。

旧約時代から示されていたように、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル人への手紙9:22)いけにえに罪を負わせ、その血が注ぎ出されるのです。
血が注ぎ出されるということは、完全な死を意味します。身代りの死が必要なのです。

そして罪の赦しのためのいけにえ、贖いの代価を、神ご自身が差し出してくださいました。神の御子イエス・キリストのきよい血が注ぎ出されたのです。
キリストは、まことのいけにえとして、いのちを捨てられました。

使徒パウロはローマ書5:9で、「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」と記しています。義なるキリストの血が、罪人の救いの土台であり、絶対に欠かせないのです。
 使徒ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と記しています。(Ⅰペテロの手紙1:18,19)

キリストの血がなければ、私たちは神に近づくことはできません。キリストの血によって神と和解させられるのです。神に近づくには、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血が絶対必要なのです。キリストの血がなければ、神に近づくことも、祈ることも何もできはしないことが、聖書を見れば明らかです。

レビ記には、ことごとくそのことが示されています。聖なる神が、罪汚れにまみれた者がご自身に近づくことができる道を備えてくださったのです。人間の考えでもって、聖なる神に軽々しく近づくことなど決してできません。聖なる神への近づき方を知らずして、このお方を礼拝することはできません。

そして、主の聖餐にあずかる者は、本当にキリストの血の意味を知り、キリストの血の尊さを知って聖餐にあずかっているか、問われます。

                                                                 引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会

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罪の贖い

生まれながらに罪人である私たち人間は、そもそも罪と悪の支配下にあり、その奴隷状態となっています。

しかし、あわれなのは、そのことを知らずに安穏としていることです。そのようなことを言われれば、憤慨し、猛烈に否定します。聖書が語るあらゆる真理に対し、神はおかしい、間違っている、と歯向かうのです。ある意味それが、罪や悪の奴隷である証拠です。神を知らず、己を知らず、罪に所有されており、目をくらませられ、監禁され、逃れることができない状態なのです。私自身がそうでした。

そして公正であられる神は、罪に目をつむり、公正にさばかずに済ます、などということをなさるお方ではありません。人は、律法によって罪に定められ、罪を宣告され、死刑が確定している囚人です。

神はそのような私たちを、ご自分のもとへ受け戻すため、身代金として最も高価で尊いものを差し出してくださったのです。

「贖い」とは、身代金を払って受け戻すこと、買い戻すことです。

このような聖書の教えを、細かいことはどうでもいいと言わんばかりにあしらう人々が、教会内にも少なくありませんが、救いの尊さを真に知る者たちには、そのような態度は理解できません。
救いの尊さを知り、生きる目的に生かされているキリスト者は、一つ一つの真理を喜び尊ぶのです。

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なだめの供え物

なだめの供え物についても、どれだけ聞くことがあるでしょうか。

神は、なだめられる必要のないお方である、ということを耳にしたり、書物において目にすることがあります。

しかし、神の怒りは旧約時代から現されており、なだめは、全焼のいけにえにあらわされています。全焼のいけにえは、「主へのなだめのかおりの火によるささげ物」でした。

神の怒りは、私たち人間のように、怒って、苛立って、冷静さを失い、相手をののしったり、というようなこととは全く異なります。私たちの身勝手な感情とは全く違います。

そして、神のご性質は、私たち人間であれば対立するようなものも、すべて完璧に調和し、保たれています。

従って、なだめについても、私たち人間と同じ感覚で捉えるならば、当然神を侮辱するような考え方となっていきます。

神は、聖であられるゆえ、罪や悪に対して怒りを覚えておられ、なだめを必要とされていました。罪を徹底的に嫌われるお方が、罪を完全に処理され、満足される必要がありました。ご自分が遣わされた、なだめの供え物としての御子イエス・キリストによってです。

罪人がああだこうだ、神について勝手なことをつべこべ言おうと、神は、なだめの供え物として、ひとり子さえも惜しまずに、この世に遣わしてくださいました。罪人をご自分の御怒りから救うために、必要であったからです。

ここにこそ、私たちの考えうるところをはるかに超えた、神の愛があるのです。

神の御怒りを知ってこそ、神の愛を真に知ることができるのです。

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神の律法

「神の律法」について、しつこく記しますが、キリスト教界においてもどれだけ聞いたことがあるでしょうか。

律法は、人を罪に定め、行ないによっては救われない、義と認められないことを明らかにします。

そして、律法は、私たちをキリストへ導くための養育係(ガラテヤ書3:24)です。
神の聖なる律法によって、私たちは罪を自覚させられます。罪の支配の中にあって、生まれながらの人間は、罪が見えません。そして罪の自覚がなければ、悔い改めることもありません。悔い改めというのは、神との関係を真剣に考えることです。神に背き、切り離されていたその関係が正されなければならないということに、向きを変えるのです。漠然と罪をお赦しください、と言っているだけで、罪とはどのようなものなのか、罪によって神との関係がどのような悲惨な状態になっているかを知り、真剣に「神との関係」を考えたことがないならば、本当の意味で悔い改めたことはないのです。

律法は、罪とはどういうものなのか、罪の性格を示し、私たちを義なるキリストに導き、キリストだけが私たちを救うことがおできになることを示すのです。

キリストこそ、罪の支配、律法の断罪、神の御怒り、その刑罰、永遠の死、滅びから私たちを救う救い主です。

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