生きる目的

本来の生きる目的に生きる道

途中からだとわかりにくいので、初めから順にお読み下さい。

なぜ、イエス・キリストを信じるのか

クリスチャンホームに生まれ育った私にとって、イエス・キリストを信じることは、ある意味当たり前のことのようでした。

そのような私自身が、問われていたことに対して、以下のように答えてはいても、事実、本当にはわかっていなかったために、非常に苦しみました。

・あなたは、どこに救いの必要性を感じていますか?
 - 自分には罪があり、罪から救われることが必要であると思っています。

・あなたにとって、イエス・キリストはどのようなお方ですか?

 - 私の罪のために身代わりに十字架にかかり、死んでくださった、私の救い主であり、私の主です。

・救いのために、イエス・キリストが必要な理由は何ですか?

 - 神の御子であられるイエス・キリストだけが、私を罪から救うことのできるお方だからです。

・あなたはなぜ、イエス・キリストを信じるのですか?

 - 自分の行いによって救われることはできず、救いはイエス・キリストを信じる信仰によってのみであるからです。

このように答えてはいても、私には自分が答えているこれらのことの意味が、わかってはいませんでした。神というお方を、そのとおりには知らず、神に対して自分がどのような者であるのかが、わかっていなかったからです。

私はその頃、自分がわかっていないために苦しんでいることを、誰にも言えませんでした。あなたはどうですか?

私は、わからずに苦しんでいる方々のことを覚え、祈っています。

 

神との和解

「神との関係」ということについて、焦点を当てて記してきました。

生まれながらに、私たちが神とどのような関係にあるのかを十分に取り上げずに、イエス・キリストによる救いの必要性はわからないからです。

しつこく同じようなことをくり返すようですが、この深刻で悲劇的な真実を知らない限り、救いの意味も、尊さも、わかりません。そして、本来の生きる目的に生きることはできません。

生まれながらに罪人である私たち人間は、造り主であられる神を、自分の造り主とは知らず、認めず、神に対して不敬虔な存在です。そのような罪人に対して、神は正義の怒りを覚えておられます。本来の親しい関係が失われており、敵対関係にあり、人間は造られた目的、生きる目的を失っています。

人は、神によって特別な存在として造られましたが、神よりも悪魔の言うことに耳を傾け、まず女であるエバが堕落し、人類の代表者であるアダムも堕落しました。そのアダムの堕落により、人は皆、罪の中に生まれてくる存在となっており、神との関係が切り離された状態にあります。絶縁状態にあるのです。

本来のあり方が取り戻されなければなりません。神との和解が必要なのです。

神と和解させられるためには、神に対する罪を赦して頂き、さらに義と認められなければなりません。神は、完璧な義なるお方だからです。

罪赦され、義と認められるため、私たち人間はどうしたらよいでしょうか。なす術がありません。神の律法によって罪に定められています。律法の行いによって義と認められることはできません。

人として律法の義を全うされた、罪なきイエス・キリストによってのみ、神から罪赦され、義と認められるのです。このお方に自分のすべてがかかっているのです。

イエス・キリストは、自分が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受け、死んでくださいました。御怒りはなだめられ、神はこのお方を死者の中からよみがえらせられました。

このお方にのみ信頼する者を、神は義とみなしてくださいます。このお方のなさったこと - このお方が完全に神に従われ、義を尽くされたこと- その義をその者の義とみなしてくださるのです。何と驚くべきことでしょうか。

こうして、神との和解がなされるその喜びを、知って頂きたいと願います。

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悔い改め

【そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。】マタイの福音書3章1-3節

イエス・キリストの先駆者として遣わされたバプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを説き、悔い改めのバプテスマを授けていました。

悔い改めとは、「向きを変える」、「思いを変える」ということです。造り主であられる神を覚え、神に背を向け、神など関係なく自分の心の赴くままに生きていたことを、見直すのです。

人々は、自分の罪を告白し、バプテスマを受けていました (マタイ3:6)。「告白」は、もともと「神が見ているとおりに見る」という意味があります。自分の視点ではなく、神の視点で自分を見させられたとき、その罪深さに心刺され、心砕かれます。そして、そのことを表します。

なぜ、主イエス・キリストの先駆者として、人々の悔い改めのためにヨハネが遣わされたのでしょうか。このことは、非常に重要です。

バプテスマのヨハネは、人々にその罪を指摘し、悔い改めへとその心を導きました。悔い改めのない者たちを糾弾し、悔い改めにふさわしい実を結べ、と叱責しました (マタイ3:7-10)。罪の自覚と悔い改めを飛ばして、イエス・キリストを主として迎え入れる心が備えられることはありません。

真の悔い改めがなければ、心に天の御国の王であられるこのお方をお迎えする少しの余地もないのです。心砕かれ、悔い改めるのでなければ、このお方に支配して頂く必要を覚えません。罪に支配されたまま、罪を好み、神に罪を赦して頂く必要を覚えません。

このお方なしに、罪を赦して頂くことはできません。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(へブル9:22)。聖いイエス・キリストの血によってのみ、私たちは神から罪を赦して頂くことができるのです。

福音は、「イエス・キリストを信じなさい」から始まるのではありません。

イエス・キリストご自身もそうであられました。

【この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」】マタイの福音書4章17節

                  引用 (聖書 新改訳第三版  日本聖書刊行会

 

 

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自分が描く神の理想像

「神を信じる」と言ったときに、自分が信じる神はどのようなお方でしょうか。

何でも受け入れてくださる神。自分のしていること、思っていること、弱さも失敗も、赦し、受け入れてくださる神ならば、信じやすいのです。

しかし、受け入れてくださらない神となると、そんな神は神ではない、というような態度となってしまうのです。それは、神を信じているという人々の中に、しばしば見られる光景であり、私自身もそうでした。

自分が良いと思ってしていること、願っていること、それらが受け入れられないとなると、反発します。それが、自分の描いている理想の神を信じ、聖書の神、唯一まことの神を信じ、敬ってはいない人の姿です。

自分の描いている理想の神を信じ、満足しているならば、神との和解の必要性、救いの必要性はわかりません。

神の愛、恵み、あわれみという、自分の理想にかなうところばかりが唱えられ、イエス・キリストを信じなさい、と言われても、その特別な必要性がわかりませんし、何のために、何をどう信じるのかもわかりません。

聖書の神は、聖なる義なるお方であられ、罪や悪に対しては、必ず報いられます。しかし、悔い改める者にはあわれみを示されるお方であられます。

悔い改めというのは、ただ、私は悪いことをしました、罪を犯しました、ごめんなさい、と、自分が悪いと思ったこと、罪だと思ったことについて、謝るというようなことではありません。

神に対する罪は、そもそも神ご自身に対する認識の誤りということがあります。神がどういうお方であられるか、正しい認識があるならば、人は神を神とし、神に従うことに積極的になるはずです。

神に対して自分が誤った認識をしていたことへの自覚、自分自身に対する認識の誤りへの自覚、そして神と自分との関係が正しい関係にないことへの認識が生じてこそ、悔い改めへと向かわせられるのです。

神は、どのようなお方であられると認識しているでしょうか。神に対して、自分はどのような者でしょうか。

救いの尊さがわからない理由

救いについてよくわからない、それは、私自身がそうでしたけれども、そもそも自分がどのような状態にあるのかを知らないからです。

特に、造り主であられる神と自分の関係性において、どのような状態にあるかを知らないからです。そしてまた、知りたがらないからです。

私たちが何か救いを必要としたとき、求めるのは愛の手です。自分を受け止め、自分を理解し、寄り添ってくれる存在を求めます。

そこで愛の神が登場します。神はまさにそのようなお方であられるのだと。

確かにそうですが、そこから入ったのであれば、神ご自身が差し出してくださった救いの道の必要性がわかりません。

しかし問題は、私たち人間は、罪によって神との親しい関係が失われ、神の御怒りの下にあるということです。

神は聖く義であられるお方なので、罪に対して公正なさばきをなされます。

私たちは神に従うことができず、そもそも従おうともしません。縛られたくない、自分の人生なのだから、自由に生きたい、と、自分の生がどこからきたのか、そんなことはお構いなしに生きています。

法律に従わず、反することをすれば、罪に定められ、相応の刑罰が下されるように、神の律法に従うことをしようともしない私たちは、罪に定められており、神によってさばかれなければならない存在です。公正なさばきをなさらない神は、神ではありません。

神を神とせず、神の律法に完全に反し、罪を犯している人間は、神の御怒りの対象、さばきの対象なのです。

そこで、神ご自身が備えてくださった救いの道が絶対に必要であることを知るのです。

神は、ご自分の御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされ、人として完璧に神に従われたキリストを、私たちの身代わりに十字架刑という罪の刑罰へ至らせられたのです。神は、愛するひとり子に、私たちの罪を背負わせ、御怒りを注ぎ出され、さばきを下されたのです。

ここにこそ、神の愛が示されたのです。

 

失われている造り主との関係

このブログの初めの方でも記しましたが、生きる目的を失っているのは、まず、自分がどこから来たのかを知らないからです。自分の造り主を知らないからであり、造られた目的を知らないからです。

造り主であられる神の栄光を現すこと、永遠に神を喜ぶこと(ウエストミンスター小教理問答1)、このことが目的だと言われて、心底から「そうです、それこそが私の目的です」と言える人がいるでしょうか。

それがどういうことなのか、わかりません。そしてむしろ反発します。それが罪人として生まれてくる人間の姿です。

そのようにして生まれてくる私たち人間は、造り主なる神との関係が失われているのです。このことこそ、大問題なのです。

先にも記した通り、人類の代表者アダムがたった一つのおきてを破り、人類に罪が入ってから、人は誰もが罪人として生まれてきます。罪は神との関係を切り離します。神は完璧な聖なるお方であられ、罪に対して怒りを覚えておられます。聖なる神は、罪や悪を絶対に嫌われるお方だからです。罪人は神を毛嫌いしています。

つまり、神と人は完全に敵対関係にあり、歩み寄ることも不可能な状態なのです。

私たち人間に必要なこと、生きる目的が取り戻されるために必要なことは、神との和解です。造り主であられる神との本来あるべき関係が取り戻されなければ、生きる目的を失ったまま、最終的な罪のさばきを受けて滅びゆく以外にないのです。

その和解の道を、神ご自身が一方的に差し出してくださったのです。ご自身に反逆して止まない人間に、聖なる怒りを覚えられながらも、最大のものを惜しみなくお与えくださってまで、和解の道を開いてくださったのです。

ですから、どうか、この救いの道を知って頂きたいのです。

 

生きる目的を失っていることを知る

大変久し振りになりますが、改めて、キリスト教が差し出している「救い」について、非常に曖昧になってしまっているために悩んでいる方々がおられ、何より私自身が救いについて曖昧であったために悩み苦しんだことを踏まえ、再び記していきたいと思います。

生まれながらに生きる目的を明確に持っている人はいません。

「生きる目的は?」という件に関して、以前、仕事のある研修の中でも聞いたことがあります。講義を聞いていて、その方はそのことと真剣に向き合われたのだな、と思いました。その方は、「生きる目的、その答えはわからない。けれども、一つのことは、成長することではないか、というのが今思っていることです。」というように話されていました。

しかし、人は必ず死を迎えることを知っています。 ならば結局、それも何のためなのか、答えを出すことができません。

そこから行き着く答えは、「人は生きる目的を失っている」ということです。まず、そのことにはっきりと気づかされることこそ、真の生きる目的を見出す大きな一歩ではないでしょうか。生きる目的を失ってしまっている者が、自分で生きる目的を見出そうとしても不可能なのです。

「私は生きる目的を失っています。どうしたら取り戻すことができるのでしょうか。」と・・・

真剣に捜し求めている方々に、私はどうしても見出してほしいのです。

今一度、少しずつ記していけたらと思っています。

原罪 - 人類の最初の代表者アダム -

続いて、『原罪』について、見たいと思います。
アダムは、妻のエバから食べてはならないと神から命じられていた木の実を差し出され、戒めることもせずその実を食べ、人類に罪が入りました。
『原罪』について、まずD.M.ロイドジョンズ師によるローマ書講解5章から引用したいと思います。
ロイドジョンズ師は、ローマ書5章12-21節の区分について、〔この区分が、聖書の中でも、原罪の教理を教える代表的な箇所〕だと、そして12節については、〔神学という見地からすると、全聖書の中で最も重要な節の一つである。〕と言っています。
そしてその12節について、〔罪が普遍的に存在しているということ〕、〔死が普遍的なものであること〕、この二つの事実の説明がここに見出されると言います。

 

【そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、─それというのも全人類が罪を犯したからです。】ローマ人への手紙5章12節             (聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会

 

これは、〔罪と死の双方が人間の生に、また、人類の物語の中に「入り」込んだのは、ひとりの人アダムが行なった不従順の行為の直接的な結果としてである〕こと、〔このひとりの人のその一つの行為、その一つの不従順、その一つの罪こそ、死を私たち全員の上にもたらしたものであり、私たち全員を罪人に指定したものである。それは単にアダムが私たちに罪深い性質を受け継がせたというだけのことではなく、神が、アダムと私たちの関係のために、私たちを罪人と「指定された」のである。そして、その罪に対する刑罰は、死という形で人類全体に臨んでいるのである。〕とあります。
これで終わりではなく、アダムとの古い関係と同じように、「第二のアダム」、「最後のアダム」であられる代表者キリストとの新しい関係にあることについて述べられているのですが、今回は、『原罪- 人類の最初の代表者アダム -』について、非常に簡単でありますが、覚えておくために見ました。

                       D.M.ロイドジョンズ 訳 渡部謙一 
                         ローマ書講解5章 救いの確信 
                               いのちのことば社

 

“罪人と言われても、それがアダムにあってということで、自分の責任であるわけではないという安心を覚える。”という話がなされているのを聞いたことがありますが、そこは安心を覚えるところではないのではないはずです。
罪人と指定されている者たちは、そのままであるならば、それぞれがその罪の刑罰を受けるのです。
キリストが身代わりに罪の刑罰を受けてくださり、義なるキリストにある者とされていることに安心を覚えていたいと思います。

堕落の結果 - 神の女への宣告 -

【女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」】創世記3章16節(聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会

やはり、D.M.ロイドジョンズ師のエペソ書5:22-33講解「結婚することの意味」から引用します。実際、前々回に引用した分の直前に以下のことが語られています。

〔もし罪と堕落がなかったなら、子を産むことはおそらく苦痛を伴わなかったろう、と推測できるであろう。『あなたは苦しんで子を産む。』しかし、ここで今私たちが問題としていることは、『しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配する』という点である。ここからある事が言われているのがわかる。主人としての性質、堕落以前にすでに確立していたかしらであり、リーダーであるということが反復されているだけでなく、『彼は、あなたを支配する』ということが強調されているのである。ここに見られる新しい点は、女が男に仕えるという面が、堕落の結果いっそう強まったということである。〕

そうでもないような場面で、女性の権利が奪われていることについて強く主張されることがしばしばありますが、聖書にははっきりと造り主なる神による創造の秩序と、堕落に対する神の宣告が記されています。

男性が適切にリーダーシップを取ることができないことや、女性を不当に扱うような場面も確かに実際多く見られてきていることでしょうけれども、女性の扱いに対して、聖書はいかに配慮に富んでいるかということも見ることができます。

過度に権利を主張する前に、創造の秩序と、堕落の結果として招いている事態を、謙虚に受け止めなければならないことを思います。

サタンの誘惑と女の堕落

もう一度、創世記3章1-7節から、サタンの誘惑とそれに惑わされて先に堕落した女について見たいと思います。

【さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。】創世記3章1-7節 

                                                                              (聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会

サタンは、惑わしやすいと知っていた女(エバ)に近づき、巧みに誘惑をしました。
サタンの巧妙さは、恐ろしいものです。回りくどい言い回しで、少しずつ心をくすぐり、高慢へといざない、神から引き離そうという働きは、今も私たちに対して行われている手口です。

エバはサタンの巧みな働きかけにより、「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好まし」くなりました。このようなことは、常日頃、私たちに起こることです。

フェミニスト教師は、アダムもいっしょにいたのだから、惑わされたのはエバだけではないと説教しますが、Ⅰテモテ2章14節には「また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とはっきり記されています。
前回引用したD.M.ロイドジョンズ師のエペソ書5:22-33講解「結婚することの意味」の続きにあるように、“パウロ意見の個人にすぎない”というようなことが言われることを、私も耳にしますが、ロイドジョンズ師が言っているように「聖書は霊感された無謬の神の言葉であると信じているなら、使徒パウロのことを、この世がするような方法で言ってはならない。彼が記す時、旧約聖書を引用しているだけでなく、霊感された使徒として書いているからである」のです。

教会内にも、女性の有能性を高らかに主張する女性たちがいます。
しかし、どんなに有能な女性も、罪がなかったエバに勝る女はいません。そのエバが惑わされ、こうして最初に堕落したのです。

この聖書に書かれている事実を否定すること自体、悪の思うつぼになっているのです。

私たちキリスト者女性は、しっかりと覚えておかなければなりません。

堕落の起源

生きる目的が取り戻され、その目的に生きる者として、聖書の真理を追い求めていきたいと願っています。
そこで改めて、堕落の起源について、聖書が語っている事実を見ていこうと思います。

【さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。】創世記3章1-7節 

                      (聖書 新改訳第三版 日本聖書刊行会)

 

この堕落の実体について、20世紀最大の説教者の一人と言われるD.M.ロイドジョンズ師は、エペソ書講解5章22-33節「結婚することの意味」の中でこのように語っています。

〔 堕落の実体、エバに起こったことが何であったかと言えば、悪魔に巧みに取り入れられ、その勧めを聞いて、彼女は自分のすべきこと、これまでしてきたこと、すべきこととして教えられていたこと、つまりこの問題をアダムに相談することをする代りに、自分で決定を下し、リーダーになったのである。アダムに問うことをせず、自分で処理した結果、当然そうなるべくして、彼女は堕落した。彼女は彼をも堕落に巻き込んだため、人類全体が堕落した。こういうわけであるから、ある意味で、原罪は女が結婚関係における自分の位置、立場を理解するのを怠ったこと、奪われた権威、権力、立場が悲劇と無秩序を生み出したのである。この事は創世記3章16節に述べられているだけでなく、女性が上に立ち、教えたり説教したりすることに関して、使徒がテモテへの手紙第一の2章で論じている論拠にもなっている。〕

これは、[ 2. 創造の秩序] の中で語られ、その前に、聖書には男がかしらであり、リーダーシップをとる立場にあること、神が男をそのように造り、男がそれを果すことができるように、機能と能力とそうする性質を与えられ、女を男の補助者となるように造られた、と教えられていることが説明されています。

                   D.M.ロイドジョンズ エペソ書5:22-33講解 
                            「結婚することの意味」 
                        訳 鈴木英昭 いのちのことば社

私自身も含め、キリスト者女性はこのことを重々覚えておくべきであり、フェミニスト教師と共に聖書に反論をすべきではありません。

この堕落の起源の事実を見ればこそ、このような女をも捨て置かず、同等の救いをお与えくださった神をほめたたえ、神に従いたいと思わずにはいられないはずです。

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ただ、神の恵みにより

「恵み」ということばは、「愛」と共に、キリスト教界においてやたらめったらに飛び交っています。その現状を「恵みの安売り」と批判する牧師先生もいますが、私も全くその通りだと思います。

そこで、救いにおける神の恵みとは如何なるものか、その神の恵みを知る者とはどのような者か、学ばされてきたことを短く記したいと思います。
救いは、完全に神の恵みによります。

しつこいようですが、生まれながらの私たち人間は、あまりにも罪深く、徹底的に腐敗していて、全く神から心にかけて頂けるような存在ではありません。

罪深く、価値のない者で・・・などと、私自身、以前は軽々しく言っていました。しつこく言われても、本当にはわかっていませんでした。しかし本当に深くそのことを悟らされた後は、そのように易々とは言えなくなりました。恩顧を受けるに全く価しない者であることを悟らされる時には、言葉にならない苦痛が伴います。

罪を認めており、信仰を持っている自分というものが主体となっているなら、救いが完全に神の恵みであるとしてはいないのです。そうではないと自分では思っていても、無意識に自分の信仰を誇りとしてしまっていることは多いと思います。私自身がそうでした。

信仰も与えられるものであり、自分が信じると決心するのではありません。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 エペソ書2章8,9節

神がどれほど聖いお方であられるかを少しでも知り、自身がどれほど汚れにまみれた醜い者であるかを悟らされることなくして、神の恵みを知ることはできません。

イエス・キリストを信じる信仰

これまでもそうでしたが、私の周りの身近な教会員の方々を意識して記しています。
諸々の活動に忙しく、みことばにはあまり関心がない多くの方々に、私は悲しみを覚えますし、主はどのようにご覧になっておられるでしょうか。イエス・キリストを信じる者は、主のことばを慕い求めるものではないでしょうか。

 

人が義と認められるのは、律法の行ないによってではなく、信仰によってです。
何を信じるのかと言えば、イエス・キリストのすべてです。

イエス・キリストについては、旧約聖書から聖書全体を通して語られています。キリストは、律法と預言者を成就されました。そのことが新約聖書で語られています。ですから、旧約聖書新約聖書が語る通りの真理を聞き入れることです。

聖書はいくらでも、どのようにでも解釈できます。全体を捉えずに、自分の信じたいように信じるとか、信じられることだけ信じるというのでは、信仰とは言えません。

一人一人が信仰へと導かれる道筋はそれぞれですが、共通の経験があります。

口先でイエス・キリストを信じる、と言うだけでは、イエス・キリストを信じる信仰とは言えません。

まず、自分の抱いてきた自尊心が打ち崩され、自分は神に対して罪ある者であり、神の御怒りの下にあること、永遠の死という神のさばきの対象であるのだと悟ることです。罪の自覚がないところに、イエス・キリストを信じる信仰へ至らされることはありません。

神に対する罪を自覚したら、罪が神との関係を切り離していることを知ります。神に向き、神との正しい関係を求め、自分の罪が神に赦されなければならないことを痛切に知り、罪を言い表します。

律法の行いによっては、罪に定められるのみであり、キリストの血、キリストの義によって、罪赦され、義と認められること、イエス・キリストだけが自分を救うことができると、キリストにのみ信頼します。

他に頼るものは何もなく、ただイエス・キリストによってのみ、神と和解させられ、本来あるべき親しいお交わりに生きることができると、キリストのみに依存する者が、イエス・キリストを信じる者です。

神の右の座に着かれたイエス・キリスト

イエス・キリストは、救いのみわざを成し遂げられ、高く上げられ、すべての名にまさる名を、父なる神から与えられました。イエス・キリストは、もともと神ご自身の御子であられ、神であられますが、人として、人を救うそのみわざを成し遂げられ、栄光の座に着かれました。

万物は御子にあって造られました。究極的にすべてを統べ治めておられるのは、神であられます。そのご支配が御子に渡され、最後の審判の時にさばきを下されるのも、イエス・キリストであられることが語られています。

イエス・キリストを信じ、救われた者は、このイエス・キリストのうちにあり、最終的に、キリストご自身の栄光にあずかるのです。「栄化」という教理、このことも現在ほとんど耳にしません。

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

救いは、神と切り離され、罪と悪の支配にあって、罪と汚れにまみれていた人の罪が赦され、義と認められ、キリストにある者として、最終的にご自身の栄光にあずからせて頂き、顔と顔を合わせて主とまみえるのです。キリストとともに、御使いさえもさばくことになり、新しい天と地を治めることになるのです。

救われた者は、永遠に神を喜び、神をほめたたえて生きるのです。

キリストの復活

キリストは完全に死んで、墓に葬られました。そして、よみがえられました。死者の中からからだをもってよみがえられたのです。これは、罪人がこのイエス・キリストによって罪赦され、さらに義と認められることを確証する事実です。

キリストは、罪と悪に勝利され、死を打ち破られました。律法の義を全うされ、そのキリストに罪の完全な処罰がなされ、神の怒りが完全に注ぎ出されてなだめられ、神は満足されたのです。キリストの人としての生涯は、父なる神のみこころにかなう、完璧なものでした。神の御子であられ、神ご自身であられるというご自分の権利を主張されることもなさらず、徹底的に身を低くされ、十字架の死にまで完全に服従されたのです。

それゆえ、神は、このイエス・キリストがなされた全てのことに完全に満足され、このお方をよみがえらせられたのです。

私たちの代わりに、神を愛し、神のご栄光だけのために人として歩まれ、完璧に神の義を尽くされたイエス・キリスト。だからこそ、神はこのお方をよみがえらせなさったのです。

罪のために身代わりとなって刑罰を受けて死なれ、よみがえられたイエス・キリストの義が、主イエス・キリストを信じる者の義となり、父なる神から義と認められるのです。

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